制作日記(2)
50センチの祝賀行事(前編)
→後編
1999年某月某日

 ヘルンこと小泉八雲ゆかりの場所として最も有名なのは、なんと言っても松江の塩見縄手にある小泉八雲旧居と、その隣にある記念館だろう。
 ヘルンは、松江に来てからずっとここに住んでいたわけではない。わずか1年ちょっとの滞在の間に二度転居していて、現在公開されているのは、松江を離れるまで住んだ最後の家である。
 3度目の松江訪問で私は、ヘルンが住んでいた場所すべてに赴くことができた。と言っても、そんなに大げさな話ではない。残りの二ヶ所は松江大橋に面していて、どちらも橋の北詰から目と鼻の先である。
  最初の住居は、大橋に面した旅館であった。現在も旅館なのだが、経営母体が当時のものを継承しているかどうかはわからない。いずれにしても大きな旅館であり、小さな石柱の横に、松江市観光協会の立てた説明板もあるので、簡単に見つけることができる。
 ヘルンがこの宿を出た経緯は、彼の人となりを示すエピソードとしてよく紹介される。ヘルンの世話をしていた女中が眼の病気にかかったとき、医者の診察を受けさせるようにとの再三の勧めを女将が聞き入れなかったので、この不人情は許しがたいと言って出て行ってしまった、というのである。ヘルンはこの女将と女中を説得して、費用は自分が持つという条件で医者に連れて行ったが、それを意気に感じた医者は無料で治療した、という後日談がある。

  ともかくヘルンは、末次本町というところにある家に移り住んだ。そして有名な八雲旧居よりも長い期間をこの家で過ごし、あの「神々の国の首都」の有名な文に書かれる経験をして、小泉セツと出会い結婚生活をスタートした。いろんな意味でこの第二の家は、八雲を語る上で重要な場所であるにも関わらず、紹介されることが殆どないし、松江の観光案内でその場所を確認することもできない。
 それでも松江市立図書館で、この第二の家の場所に言及している本を見つけて、場所を確認することができた。その記述に従ってたどり着いたのは、大橋川とお堀の間にある京店商店街の駐車場である。私は何か記念碑でもないかと思い、駐車場の周囲をつぶさに見て回り、建物を一つ一つ眺め、駐車場に面した路地にも入ってみたが、何もなかった。
 それでも、何もないとはいえこの場所には間違いなさそうだ、ということは確認できたので、立ち去ることにした。とりあえず写真を1枚くらい撮っておくか、と思ってぐるっと振り向くと、さっき見たのよりは一回り小さいだろうか、石柱らしいものが目に入った。私はそれに向かって歩いて、歩いて、その目の前でかがみこんだ。あわれ、「小泉八雲寄寓所址」と刻まれた小さな石柱は、駐車場に面したスナックの看板の陰になってしまっていたのである。正面から見るとわからないが、立ち去ろうとして振り向いたら、横から見る格好になったので、初めて見つけられたというわけだ。

「何だろうね、これは」
思わず私は口に出してしまった。
 歴史的なモニュメントが、街の景色の中に溶け込んでいるケースというのは、いくらもあるだろう。しかしここまで「ただの石」になってしまっているとは、驚くばかりである。
 だが、少し考えを変えてみると、これはこれで良いのだと思えてきた。100年の時を経て、当時の面影はだいぶ薄れてはきているのだろうが、松江という町はいろんな意味で、ヘルンの書いた風景を今に色濃く伝えている。碑を立てて顕彰するより遥かに尊いものを、生きた形で継承しているのである。風景の実体を破壊した後に、仰々しく目印を作って有難がるより、よほど健全な状態ではないか。
 第一、当のヘルンという人は、こういう状態を見て憤るような人ではないはずだ。いろんなエピソードを考えあわせてみると、おそらくは「良きです」と言って笑いころげることだろう。
 これはこれで、ヘルンの町にふさわしいモニュメントだ。思いがけず、良いものを見つけることができた。(後編につづく)


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